自己主張と他者尊重の葛藤。

 僕は、自分を主張することも好きだし、他人が主張することを受け入れることも同時に好きです。
 そもそも、多くの人は、自分の良さを周りに知って欲しいという自己顕示欲を持っていると思います。これにとどまらず、より広く、自分に対する注目が集まること自体を欲することもあるかも知れません。そういう意味では、自分を他者に発信する欲があるという言えるでしょう。一方、このような欲が多かれ少なかれ多くの人に認められるものであるとすれば、他者に自分を発信せんとする人は、同時に、他者からの発信を受けることになります。したがって、一般論として、人は、自分を主張することと他者から主張されることに矛盾が生じる場合、いずれを優先すべきかという葛藤を持つことになります。
 まず、自分を主張するばかりで、他者の主張にあまり関心を示さず、場合によってはそれを排する姿勢を持つ人がいることが想起されます。例えば、以前マクドナルドで勉強しているとき、ある女子大生3人のグループがいたのですが、彼女らの会話が耳に入ってきたので聞いてみると、誰かが自分の話をしたとき、それに対してより多くを聞くという訳ではなく、すぐに自分の話題にスライドさせる、というサイクルが繰り返されていました。つまり、みんながみんな自分の話しをするという訳です。このように自分を主張するばかりというのは、すべてのことについて自分を基準としてのみ捉えようとする姿勢の発露だと思われます。決して相手の立場に立って物事を理解しようとはしない姿勢の発露と言っても良いでしょう。そのような姿勢を持つ人ばかりが集まると、その集まりは、いかに自分のことを口にするかを競い合うことを至上命題とする場と化すかのように感じられます。しかし、いかに自分のことを口にしたとしても、それを相互に競い合うという状況の下では、相手がもともと持っている感性に合致しない限り、それが相手の理解・共感を得ることはないことになるはずです。要するに、報われることのない努力に時間を費やしている訳です。それどころか、このような姿勢によると、いかなる交流の場も、自己主張の道具としてのみ理解されることになるため、決して互いが互いを尊重しあうという関係は期待できません。これでは、いかに社交性を持ったとしても、その成果に乏しく、絆の構築においてヒッキーと大差ないことになるでしょう。
 他方、自分の主張と他人の主張がぶつかるとき、自分の主張を封殺する人もいるかも知れません。例えば、自分の話ばかりする人がいる場合、聞き役に徹するというのは、その一例でしょう。このように自分の主張を押し殺してまで他人の主張に一歩譲るというのは、譲ってもらった相手方にとっては幸せこの上ないことですが、譲った当人は、やや釈然としない息苦しさに苛まれるかも知れません。「私はこの人に悩みを相談できない」という付き合い方の狭小化が生じるからです。
 このように考えてみると、仮に自分の主張と他人の主張がぶつかり合うという状況を完全には回避できないとすれば、何とかして両方を妥協的に、しかしバランスよく尊重できないものかという思いに至ります。個人的には、その思いが強いです。
 もっとも、そのように考える場合、以下にバランスを保つかという難問が発生せざるを得ません。
 例えば、僕は他人が少しでも興味深いことを発話すると、当初はそれを聞くことに徹していても、それに関する自分の意見はどうだろうかと自問し、それが見つかった場合、それを伝えたいという衝動に駆られます。多分、自分が相手の話を一生懸命聞いているということをアピールしたり、自分が中身のない人間だとは思われないようにしたりしたいから、そのような衝動が生まれるのかも知れません。しかし、それではまるで自分の主張よりも他人の主張を優先する機会を持たないことになってしまいそうです。究極的には、常に自分ありきということになってしまうからです。それが人間と言うものだというあいだみつを的理論で片付けようとしてみても、それは自己弁護でしかありません。そして、そのような自己主張への固執が誰かを傷つけることになった場合、いかにも無責任な発想です。
 そうすると、ややもすると自己主張にばかり傾きかねない人は、自己主張の一切を諦めるべしという姿勢を要求されるようにも思われます。しかし、それだけでは、前述のように、他人の主張を優先するばかりで自分を分かってもらう機会を得られない「お人よし」にならなければならないことになります。結局、自分の主張と他人の主張のバランス如何の問題が自覚された場合、それ以上の一般的思考は、なかなか難しいと言わざるを得ないように思われます。
 してみれば、もはや一般的結論を期待するのは現実的ではなく、むしろ、自分が誰を相手にしているのかに応じて、採るべき態度を個別に判断するのが良いように感じます。控えめな人が相手ならば、自分も控えめにし、相手が傲慢な人ならば、自分も気さくに話す、という具合にです。その意味で、コミュニケーションに関する実践的問題は、結局、具体的な人間と具体的な人間の意思疎通をいかに考えるかの集積でしかなく、決して、およそ抽象的に人と人の意思疎通のあり方がア・プリオリに決まるとは言い切れないという発想の必要性が、改めて認識されるところと言えると思います。