「イメージ」の「イメージ」。

 「イメージ」というのは、いかにして存在するのでしょうか。
 何かを言語化する場合、その「何か」は、「イメージ」として、予め脳内に用意されているような感じがします。しかし、「イメージ」と言えるためには、どのようなものでなければいけないのか、必ずしも明らかではありません。むしろ、言語化する直前の自分の思考状況を思い出すと、何か確たるものが脳内に用意されているという意識があるというには程遠く、これに対して、言語化した後の自分が振り返って初めて、その「確たるもの」すなわち「イメージ」があったのだろうという確認が可能になるというのが良いところです。そうだとすれば、冒頭の記述は、言語化されたメッセージが何なのかを知った上で、それを遡及させることにより、そうした「メッセージ」が「イメージ」として用意されていたのではないかという仮説に過ぎないという方が自然な分析になる気さえします。
 そこで、真正面から前言を撤回することになりますが、「イメージ」というのは、もしかすると、言語化とともに生成するものと言うべきかも知れません。もっと言えば、素人感覚では、言語と切り離された思考は存在しないのではないかとさえ考えたくなります。しかし、言語化というのは、もともと存在する観念を伝達しうるように、信号変換するような作業だと思われます。そうであれば、言語化とともに「イメージ」が生成するというのは、論理的に可能なのか、極めて疑問です。
 ここで考えられるのは、自分による自分に対する自分の中での自己完結的な言語コミュニケーションというのが脳内に存在し、これが「イメージ」を生成しているのではないかという構造です。しかし、自己完結的な言語コミュニケーションを観念する場合、言語化のスピードがそこまで早いとはとうてい思えず、したがって、一瞬のひらめきをテンポ良く発話するような話し手のことを想起すると、この観念が「イメージ」の生成を完璧に説明しうるとは信じがたいものがあります。
 このように考えてみると、言語化されるべき「イメージ」というのは、それ自体、「イメージ」化できないのではないかという発想を抱きます。そのように考えた場合、言語化されるべき「イメージ」というのは、確かに存在するけれども、それがいかにして存在するのかについて、体験ができない(したがって、描写もできない)ものなのではないかという可能的結論にたどり着く次第です。つまり、「イメージ」の「イメージ」が存在しないのです。
 「イメージ」は、脳内の電気反応だけで、自分の体験それ自体を離れて、その体験との間に何らかの通底するものがある限り、空間的・時間的な制約がないまま展開できるので、宇宙の果てに至るまでの空間についてさえ、人類が滅びるに至るまでの時間についてさえ、成立し得ます。思考のほぼすべては、何らかの意味で自分の体験だけで完結するにとどまらない事項について関わるので、「イメージ」なき思考は意味がありません。というよりも、現代の学問的発展による専門家の専門家的特化という現象を思えば、「イメージ」なき思考は有害でさえあります。それにもかかわらず、上述の可能的結論は、言語運用との関係において「イメージ」を自由自在に操ることができるのか疑わしくなる事態を招くので、腑に落ちないところがあります。
 自由自在に思考し、自由自在に言語を運用するというのは、とても魅力的ですが、どれほどそれが得意になっても、それが完璧になるに至ることは不可能だということでしょうか。