メディアリテラシーに関する一般的論調を疑う。

 最近、マスコミによる事実の捏造がたびたび取りざたされています。この事態について、大方の論調は、次のようにまとめることができます。すなわち、①報道機関たるマスコミが事実を捏造していては、視聴者・読者が真実を知ることができないこと、②マスコミによる事実の捏造は、マスコミが特定の思想を視聴者・読者に押し付けようとすることを原因とするということ、そして、③マスコミは自らの主張について謙抑的であるべきであって、仮に自らの主張をするとしても、あくまでも一意見として伝えて欲しいということです。一見、何の問題もない正当な意見にも思えます。しかし、決してそんなことはありません。
 第一に、「マスコミの事実の捏造により視聴者・読者が真実を知り得ない」という命題(①)について考えてみると、確かに、事実を歪曲されてしまえば、視聴者・読者は真実を知ることができません。しかし、このような意見を有する人の一部は、この命題の逆、すなわち、「マスコミが内容を歪曲していない報道は真実である」ということを根拠もなく盲信している気がしますが、このような盲信は、真実を完全に伝える報道があり得ると観念している点において問題があります。
 そもそも、「真実」とは言うものの、それは何でしょうか。多くの論者は「本当のこと」と言うかも知れません。では、「本当のこと」とは何でしょうか。少し立ち止まって考えてみると、その意味が自明のものとは言えないことが分かります。
 もし仮に「本当のこと」つまり「真実」が何か分かったとしても、どのようにすればそれを正しく伝えたと言えるのでしょうか。例えば、30分の記者会見を報道するにあたって、それを5分にまとめ上げなければならない場合を考えてみると、どのコメントを伝えれば言いのでしょうか。ここでは、記者会見の内容をすべて伝えようとするならば、編集によって全体の30分を何とかして5分に圧縮することが不可避的に求められます。それは真実を「正しく伝えた」ものとして評価できるのでしょうか。しばしば、編集によって内容が捏造されていると言われることがありますが、字幕等を発言内容に背いて作出するなど、不可避的でない作為が加えられた場合は別としても、編集は「真実」の部分を切り貼りしたものなので、それを指して捏造というのであれば、いよいよ報道は不可能な営為と化してくると思われます。このように考えてみると、編集における真実を完全に伝える報道があり得るという観念は、信憑性が高いとは言えないと思います。
 第二に、「マスコミによる事実の捏造は、特定の意見を押し付けようとするからである」という命題(②)について考えてみると、確かに、特定の意見を押し付けようとする気持ちが過剰に高まれば、事実の捏造という行為に出てしまうと言えると思います。しかし、このような意見を有する人の一部は、この命題の逆、すなわち、「特定の意見を押し付けようとした訳ではない場合、マスコミによる事実の捏造は起こらない」ということを根拠もなく盲信している気がしますが、このような盲信は、事実の捏造とその意図が相互不可分のものであると思い込んでいる点で問題があります。
 いかなるときに事実の捏造があったとされるのかは、要するに、事実として措定されている状況と、報道された状況とが食い違っているときだということになると思われますが、このような食い違いは、意図せずとも起こり得るものです。その例としては、上述したように、編集作業は、伝えるべき内容を伸ばしたり縮めたりするだけであっても、捏造とされる危険と隣り合わせであるということが挙げられます。したがって、事実の捏造がある場合には報道側に悪意ありと決め付けることも、事実の捏造がない場合には報道側に悪意なしと決め付けることも、ともに正しいとは言えません。
 第三に、「マスコミは特定の思想を積極的に主張すべきではない」という命題(③)について考えてみると、確かに、特定の思想があたかも絶対的に正しいかのように報道された場合、視聴者・読者がその報道を契機として自由に思考することが妨げられると言えるとは思います。しかし、この命題を全面的に信じるに足りるものと認められるためには、なお次の2つの疑問点がパスされなければならないと考えられます。すなわち、1つ目は、思想を主張しない報道はあり得るのかという疑問点です。2つ目は、マスコミが特定の主張を報道を通じて行うことはいけないことなのかという疑問点です。
 1つ目の疑問点について言えば、思想を主張しない報道はあり得ないと思います。報道をするためには、その前提として、取材と編集という作業を行う必要がありますが、この2つの作業においては、必ずその主体の主観が入り込むからです。取材は、その対象及び方法をどうするかという決定の時点で、その目的意識があるはずです。そして、そのような目的意識が仮に「真実を探ること」という価値中立的な発想にあったとしても、編集作業を経る中で、情報の取捨選択あるいは強調がなされますから、結局、主観の入り込まない報道はまずあり得ないということになるのです。
 2つ目の疑問点について言えば、マスコミが特定の主張をあまりしてはいけないというのは、おかしい発想です。そもそも、事実の報道において主観が入り込みやすいからと言って、マスコミが意見の主張を控えなければならないということには必ずしもなりません。捏造なき事実の報道を図ることと、事実に関して意見を主張することの是非は、別問題です。この点、事実に関して意見を主張することは、その意見を伝えられた側の思考を促す契機になります。したがって、「マスコミが特定の思想を積極的に主張すべきではない」という命題は、正当とは思われません。
 ましてや、マスコミができる限り意見を伝えないようにしたとして、それが視聴者・読者の思考を自由なものにするかというと、そんなことはありません。なぜなら、マスコミが意見を言わない場合、視聴者・読者が被報道事実を自分なりに解釈して消化することになると思いますが、この解釈は、視聴者・読者の主観(あるいは社会常識とされる考え方)に支配されて行われるのが通常だと考えられます。そうだとすると、マスコミが意見を言わないというのは、視聴者・読者の思考をかえって不自由なものとして、ひいては、社会常識の固定化をもたらすと言えます。良い常識は残すべきであるのに対して、良くない常識は変えるべきだとするならば、このような固定化は許されるものではないはずです。
 ここで思うのは、マスコミの特定の主張は、基本的に、視聴者・読者の思考の契機となるということです。特に、社会常識とは必ずしも一致しないマイノリティの意見は、マスコミの報道において主張されなければ、永遠に視聴者・読者の検討対象とはなりません。
 このように考えてみると、マスコミは、むしろ、意見を言うべきだと思われます。
 このような考えに対して、視聴者・読者に対して特定の意見をマスコミが押し付けるのはやはり好ましくないという反論があるかも知れません。しかし、そのように考える場合、何が根本的な原因なのかをしっかり考えなければならないと思います。僕が思う根本的な原因は、結局、視聴者・読者の思考能力の欠如だと思います。確かに、よほどマスコミの主張が強烈で事実の捏造をも伴う場合にも、マスコミが主張をすることによって視聴者・読者が洗脳されるという構図が成立すると思います。しかし、このような構図は、視聴者・読者が流されやすいという場合にも成立すると思います*1。そして、先ほどの反論が、事実の捏造が起こるような場合を超えて、およそマスコミが意見を主張するのは良くないということを趣旨とする場合、後者の場合を看過しているように思われるのです。
 マスコミのみならず、およそ誰かの主張に関する異論として、「言い方が一方的過ぎる」あるいは「主張が強すぎる」という反論がありますが、それは、議論の場という同じ土台に乗った上ですべきだと思います。つまり、価値論として争うべきだという訳です。これに対して、一方的であり、あるいは強い意見主張は、およそ意見主張としての適格を欠くという意味での反論であるならば、多様な意見を集めて、その上で、より良き真理に到達しようとする見地からは、いかにも排他的かつ閉鎖的な考え方だと思います。つまり、メタ価値論として争うのは問題があるという訳です。
 真理により近づくために多様な意見を許すという考え方*2は、自分の考え方とは矛盾する価値観をア・プリオリに排除するという発想を許しません。仮に、自分の考え方とは矛盾する価値観をア・プリオリに排除したいのであれば、それが、社会主義又は社会主義的国家における独裁体制の発想と大差ないということをまず知るべきです。
 また、多様な意見が許されるとしても、ある意見を強烈に主張されるのは洗脳の危険があるから困ると言いたいのであれば、意見の分かれ得ることについて、絶対的に正しい答えがすぐ欲しいという馬鹿げた甘えの精神を自らが持っていることをまず知るべきです。何らかの考え方が絶対的に正しいとされる方が安心できるというのであれば、独裁国家にでも亡命するか、信仰心が薄れて金の亡者と化している一部の宗教団体にでも入団すれば良いと思います。

*1:なお、両場合は、非両立の関係ではないでしょう

*2:なお、このような考え方は、哲学上、規範的価値相対主義と呼ばれます。