自然の摂理。

 本日、我が家の犬が息を引き取りました。誕生日の平成5年9月20日から数えて、15年3ヶ月弱生きたことになります。もちろん、寂しく辛い思いはありますが、(恐らく)死因は老衰による心不全又は多臓器不全あたりで、特に苦しそうな様子もなく、フェードアウトのように生命活動を終える最期でしたから、嬉しい思いもあります。
 この犬を飼い始めた当初は、それまで犬を飼うのは想像したこともなく、また、正直犬はあまり好きではありませんでしたので、困惑したものです。例えば、我が家に来た翌日の朝、彼にとっては見知らぬ人に等しい僕が階段を下りていくと、思い切り吠えられてしまい、怖い思いもしました。また、犬は家族の中で「下から2番目」に自分を位置づける序列化の習性があるらしく、「1番下」に位置づけられていた弟が耳を咬まれるという事件も起きました。このように、様々に問題含みの飼い始めでしたが、飼ううちに、犬のことがいろいろと分かるようになるとともに、ペットないし家族としての愛着も育まれていきました。この犬は、あまり人懐っこくなく、また、怒りっぽいのか臆病なのか、すぐ吠える癖があり、可愛げのないところも少なくなかったため、どこか難しい存在でもありました。ですが、躾ければ基本的には言うことを聞くようになりましたし、犬ならではの可愛さもありました。
 こうして、この犬とともに過ごす時間は積み重なりましたが、老犬の域に達すると、次第に、性格の変化が感じられました。例えば、吠える癖が徐々になくなりました。また、それまでは、家族の誰かが帰宅しても、大して出迎えてくれないところがあったのですが、次第に、出迎えてくれるとしばらく近くにいたままになることが多くなりました。こうした温和さは、今まであまり感じられなかった部分がある可愛げを演出するには十分なものでした。この頃から、この犬の寿命がいつまでなのか、家族の関心事になるに至りました。
 大きな変化は、今年に入ってから生じました。それまで、後ろ足の関節が悪くなり、やや歩くのが不自由だったのですが、その足がほぼ動かなくなってしまったのです。また、目が見えなくなったようで、音などを出さないと反応しないことがしばしば見られました。さらに、それまでは、水が大嫌いで、雨の日は小屋の中でじっとしている犬だったにもかかわらず、雨の日に、雨に打たれて呆然とすることが多くなるなど、痴呆のごとく、行動に不思議なところも現れました。そして、秋口に入ると、散歩がほとんどできなくなり、耳もあまり聞こえていない様子になりました。
 もともと食が細い犬だったにもかかわらず、しばらくは、食欲が旺盛で、老犬なりに元気な様子でした。しかし、大体ここ1週間の間には、老犬でも食べやすいミンチタイプの缶入りドッグフードでさえ、食も進まなくなり、とうとう、昨日の夕飯には、母親が食べされていたところ、「もう要らない」と言うかのごとく顔を横に背けたそうです。これが、今生の最後の食事となりました。
 同日の夜、僕が帰宅すると、その犬は、玄関の横で毛布に包まって、最期のときを待つかのように、じっとしていました。もう立ち上がったり、寝返りを打ったりすることもできなくなっていたのです。他のやるべきことを放り出して、夜中にしばらくその犬の体をなでたり、その顔を目に焼き付けたりしていました。こちらに対して反応は見せることは一応でき、顔を上下に微動させることによって、「まだ生きてるよ」と伝えられているような気がしました。家の中に入れたい思いもありましたが、なれない空間や温度の高い空間では、かえって、命を縮めることになりそうに思われたため、暖はその犬を包む毛布に任せることにしました。「もう年は越せないね」と家族は感じていました。
 今朝、僕が家を出ようとしたとき、まだ昨晩と同様かそれ以上の様子で、もしかしたらまだ数日くらいは生きられるのではないかと思いました。遅刻も厭わず、しばし、昨晩と同様にして近くにいましたが、今夜もまたこうすることはできるだろうと思い、家を経ちました。しかし、これが家族に生きて接した最後の時間となりました。大学に向かって電車に乗っていると、1通のメールが届きました。母親からです。いわく、「もう死んでる。さっき触ってもらって安心したのかも知れないね」と。
 今は母親が体を洗った上で、塩とビーフジャーキーと線香を添えて、安らかに眠っています。家族の全員と対面次第、その後の行動に移る予定です。
 人は、生きている限り、他の命の死と直面せざるを得ないのが自然の摂理です。生きている時間が長くなればなるほど、その機会の回数も増えていく一方です。しかし、それでも、残された側は生き続けていかざるを得ません。そのときにできる大きな仕事は、恐らく、その死を受け入れることでしょう。こうした死の受容は、朽ちた命が「もう生きてくれない」ことよりも、輝いた命が「今まで生きてくれた」ことに着眼点をシフトすることと恐らく密接に関連します。そうであれば、「今まで生きてくれた」ことに対する感謝を以って、その死を受け入れるのが筋です。
 「今までありがとう。」
 この言葉とともに、冥福を祈願したいと思います。